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主なるイエス・キリストを初めて感じたとき

私が、主なるイエス・キリストを初めて感じたのは、教会に初めて足を運ぶ十年近く前に遡る。

初めて教会に足を運んだのが、10年前なので20年近く前の事になる。

『讃美歌21』493番 「いつくしみ深い」を初めて声に出して歌った時のことである。

何故か、涙が溢れだし、止まらなくなった。

場所は、妹の結婚式場だった。

それは、結婚式の感動とも関係がなく、この世の慮りとは無縁であったと思う。

同時に、主なるイエス・キリストを初めて「声に出して」呼んだ瞬間だったのである。

当然、周りに涙している人などなく、恥ずかしかったのであるが、あの涙は、繰り返すが、この世の慮りとは無縁であったと思う。

その後、十年ほどして、初めて教会に行き、賛美歌を歌っても一滴も涙は流れない。

私達、クリスチャンにとっては、当然の事なのだが、この世に生を受けてからずっとイエス様は一緒におられるのである。

この「声に出して」呼ぶこと。これが、大切なことであり、気付きを私達に与えてくれるのではないだろうか。

ここには、世のクリスチャン達が主張してやまない、聖書を通してみことばにふれ、イエス・キリストと出会うという過程が無いではないか?という声が聞こえてきそうであるが、実は、私は少年期から聖書に触れてきた。

その聖書は、新世界訳というエホバの証人が家にもたらしたものだった。

ただし、聖書を母が買っただけで入信はしていなかった。

ブラジル出身のは母は、キリスト教には親しみをもっていた。

私も、何もわからずに所々その聖書を読んでいたのである。

聖書、聖書というが、一般信者が自分の聖書を読むなどというのは、キリスト教の歴史で言えばごく最近のことであり、それまでは、聖職者が読むのを聞いていた時代の方が断然長い。

それでも人々の信仰は引き継がれてきたのである・・・・・